2022/04/13

最高の暇つぶし

 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 世の中には、忙しすぎて“うつ”になった人がたくさんいます。一方、何をすればいいのか分からなくて、困っている人も少なくありません。人間、退屈が過ぎれば、悪いことを考えます。昔の嫌なことを思い出したり、先のことを考えて不安になったり・・・。だから「暇つぶし」は必要です。

 私にとって、「昔のことを考えてみる」のは暇つぶしの一つです。

 前回、「弥生時代」のことを書きました。その時代のことを考えていると、今度は「日本という国は、どうやってできたのだろう」、そういった疑問が湧いてきます。またそれと同時に、「邪馬台国」のことも気になり始めました。

 以下は、それらに関する、私の推察です。

 思うに、(日本のもとになった)ヤマトが国内を統一できたのは、「発想」が進んでいたからです。それは、「武力で制圧するより、宗教を用いて、ゆるやかな連合体を作っていく」とした発想です。

 なおヤマトは、連合を組むための「知恵」を持ち合わせていたのかもしれません。「もめた時には女性を王にする」「どの豪族が王を推挙するのか、あらかじめ順番を決めておく」、そういったアイデアです。

 『邪馬台国』と『ヤマト』は、名前が似ています(ヤマトゥ)。その上、上記のように「国の治め方」まで似ているとなると、「邪馬台国はヤマトの起源であり、畿内(近畿の一部)にあった」、そう考えるのが自然です(邪馬台国がどこにあったかは、まだ決着がついていません)。

 邪馬台国の時代というと西暦200年頃です。当時すでに邪馬台国は、各地に勢力を広げていたと思われます。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、九州北部のいくつかの国が、邪馬台国に隷属していると書かれています。私はさらに邪馬台国の領土(支店のようなもの)が九州に存在したのではないかと推測しています。

 邪馬台国は、中国(魏)に使者をやっていました。『魏志倭人伝』には邪馬台国への行き方が載っています。書かれている内容の、どこが本当で、どこがまちがっているのか、正確には分かりません。

 専門家によると、「方角」の記載もあてにならないそうです。また「何千里」と書かれた箇所も信用できません。当時は測量技術が発達していなかったからです。ただ「何日(かかる)」と書かれた所は、信じたいところです。昔は、距離を表す際、「歩いて何日、船で何日」と表現するのが一般的でした。その部分も信用できないとなれば、もはや『魏志倭人伝』から邪馬台国の場所を推定するのは不可能です。

 『魏志倭人伝』によると、邪馬台国に行くには、九州の北部から船で30日かかるとされています(投馬国まで20日、そこからさらに10日)。するとその記載からも、「近畿にあった」と考えるのが妥当でしょう(当時は、船で一日というと、20数キロメートル)。

 邪馬台国への行程が書かれた部分。そこを読んでいると、何となく “つぎはぎ”された印象を受けます。また、一番不思議なのは、(奈良にあったと推測されるのに)九州のことが多く書かれている点です。その点についてはどう考えればよいのでしょう。

 私の憶測は以下です。邪馬台国の使者は、九州支社の人間と本社(奈良)の人間の混成部隊だったのではないか。さらに邪馬台国の場所を説明した人物は、主に九州支社の人間だったのではないか・・・。

 なお、畿内説(近畿の一部にあった説)を採用した場合、『魏志倭人伝』の中で一番解釈に困るとされてきたのが次の箇所です。それは、邪馬台国の南に狗奴国(熊本)があるという記載です。これに関しても、魏の役人と「九州支社の人間」のやり取りを思い浮かべてみると、想像がつきます。

 魏の役人が尋ねます、「対立している国はあるのか」。邪馬台国の“九州支社”の人間が答えます、「あります」。魏「それはどこだ」支社の人間「狗奴国です」、魏「それは、どこにある」支社の人間「我々がいるところの南です」、といったやりとり。

 つまり、邪馬台国の領土(支店)が九州にあったことで、誤解を招いたというわけです。

*****
 私は時々、患者さんに尋ねられます。「先生は暇な時、何をしているんですか」。そんなとき、こう答えます。「新聞をめくったりしているなぁ・・・」。でも、今日のような話も、私にとっては「最高の暇つぶし」です。皆様もぜひ、自分なりの「暇つぶし」を見つけてみて下さい。

令和4年4月13日
院長 松本康宏