2019/09/17

織田信雄

 秋の深まりを感じる今日この頃、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 先日行われた『病院納涼祭』には、たくさんの方にご参加いただき誠にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

 さて私事ですが、今年の夏、三種町を訪ねました。といいますのも、信長の次男、信雄(のぶかつ)がいた場所を確認したかったからです。

 信長には三人の息子がいました。長男が信忠、次男が信雄、三男が信孝です。長男信忠は「本能寺の変」で命を落としました。その後、三男信孝は、秀吉と信雄に追いやられ自死しています。唯一生き残ったのが次男信雄。ちなみにスケート選手の織田信成さんは信雄の子孫と聞いています。

 当時の時代背景を少し説明しておきます。秀吉が関東の北条攻めに勝利した後、北条の領地に家康が移転することになりました。次に秀吉は、信雄に対し、家康がいた土地に移るよう指示します。しかし、尾張を離れたくない信雄はそれを拒否。そのため秀吉の怒りを買って、秋田に流されたといういきさつです。

 地元の方、数名から話を聞き、信雄?のいた場所を確認することができました。その際、面白い話も聞かせてもらいました。信雄(もしくは信雄を名乗った人物)は秋田にいる間、子どもを授かったとのことです。しかし、信雄はその子の顔を見る前にこの地を去らなければならなくなります。別れにあたっては、世話になった者に脇差と巻物を与え、次のように言い残したとのこと - 「男児であればこの脇差を持って京にのぼれ、女児であれば巻物をお金に換えて生活の足しにせよ」と。

 話は変わりますが、この夏、実家に戻ってお寺さんのお経を聴いていました。今も毎月来てもらっているようです。ちなみに、うちの宗派は浄土真宗西本願寺派。本願寺は宗派が西と東に分かれています。ただお寺は2つとも京都駅の北側、駅から歩いてすぐのところにあります。これは、通天閣と東京タワーが近くにあるようなもので、なんだか妙な感じを受けます。

 中世、政権を担おうとする者にとって宗教勢力をいかにコントロールするかが重要な課題でした。信長が生涯もっとも手を焼いたのも「本願寺」です。そんな中、家康は、寺の相続争いをうまく利用し、本願寺を分断して統治することに成功します。その結果が2つの本願寺です。両寺を近くに配置したのも政治的な思惑があってのことでしょう。

 こういった宗教政策の完成形が「檀家制度」です。これにより武家と争っていた寺院は行政の一部となり、政権に取り込まれました。また寺院にとってもこの制度は都合の良いものでした。なぜなら檀家制度とは、囲い込んだ檀家(信者)から自動的にお金が入るシステムだからです。以降、檀家制度は、先祖崇拝をはじめ、お葬式やお墓参りの大衆化など、日本人の思想や風習に多大な影響を及ぼします。

 しかし、制度ができて400年。今やその「檀家制度」も衰退の一途を辿っています。一番の理由は先祖代々の土地を離れる人が増えたこと。ますますそういった傾向が強まる中、集落の中で脈々と受け継がれてきた信雄伝説は、「この先、どうなるのだろう」 - そんなことを考えた夏でした。

令和1年9月17日 院長 松本康宏

<追記>
☆10月19日に第11回『健康を考える集い』を開催いたします。今回は第一部が体験コーナー、第二部がコンサート、第三部が講演となっております。ぜひ皆様、お越し下さいませ。