2022/05/27

秋田城物語その2

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

今回は、前回のブログの続き、『秋田城物語その2』です。

秋田城は、有名な城ではありません。石垣もなければ天守閣もありません。でも見方によっては、これほど私たちと深いつながりをもった城はありません。ではどうしてそうなのか、以下、その理由を記します。


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今から1300年前、大和朝廷は新たな北の政庁(拠点)をどこに置くのか、思案していました。当時の支配領域は山形まで。仮にみなさんが、朝廷の立場なら、どこに政庁を置こうと考えますか?

私なら、大きな河川の河口を選びます。そもそも大和朝廷が北に進出する目的は、多くの蝦夷(えみし)を取り込んで国を大きくすること。だから、当時の「道」である川を利用して、彼らと交流しようとしたはずです。

御所野に『弥生っこ村』という所があります。あそこも近くに川(雄物川の支流)が流れています。おそらく『弥生っこ村』のあたりに住んでいた人たちは、稲作の開始と同時に、川のふもとに降りてきたと思います。秋田城(政庁)の役人たちは、そういった人たちと、川を介して交流し、国の一員になるよう勧めていたのではないでしょうか。

当時、雄物川のどの流域まで、舟が往来していたかは分かりませんが、奥深く、大曲のあたりまで行っていてもおかしくはありません。なぜなら雄物川は急な川ではないからです。当然、河口から近い、牛島にも来ていたことでしょう。病院から出て開橋(ひらきばし)を渡る際、右手に川が見えます。あのあたりを舟が往来していたのではないか、私はそう推測しています。

一昨年、秋田市の下浜に国道7号線のバイパスができました。天気が良ければ、そこから男鹿半島の雄大な姿が望めます。私は初め、秋田市に拠点(政庁)が置かれた理由を次のように考えました。それは、奈良時代の人が男鹿半島を見て「あそこを超えようとしなくても、ここ(旧雄物川河口)でいいんじゃないか」と考えたというわけです。しかし、それは違っていました。調べてみると、秋田城が造られる前から、大和朝廷は蝦夷と戦い、秋田より北に進出していたようです。

やはり、秋田城を旧雄物川の河口に造った一番の理由は、そこが蝦夷と最も交流しやすい場所だったからでしょう。


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前回のブログで、秋田城の敷地内に新しい橋ができたことをお話ししました。その橋は、「旧国道」に架かっています。旧国道は基本、江戸時代からある「羽州街道」に沿って造られました。

ではなぜこの場所に羽州街道ができたかというと、それはおそらく、このあたりに「古代道路」が通っていたからでしょう。古代道路は、奈良時代の少し前から造られ始めています。当時、日本のトップは、北海道を除く全国に、古代道路(今でいう高速道路)を敷こうとしていました。

古代道路は主に西日本にめぐらされています。北の最終地点は秋田市。『続日本紀』には、次のような記録が残っています。「蝦夷と戦うために、多賀城から秋田城に兵をやらないといけない」「しかし、今の道だと遠回りである」「だから道路の建築許可を朝廷に求める」。つまり、秋田城があったからこそ、北の大地、秋田に古代道路が敷かれたのです。

もし秋田城がなければ、『古代道路』も『羽州街道』も『旧国道』も、ここを通ることはなかったでしょう。すると現在の秋田市は、ずいぶん様相を異にしていたはずです。県庁所在地にも選ばれなかったかもしれませんし、私たちも、ここに住んでいなかったかもしれません。

1300年前の決断は、私たちの生活ともつながっているのです。

令和4年5月26日 院長 松本康宏

参考:『古代道路の謎』祥伝社新書:近江俊秀著