2024/01/31
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岡山への旅ーその3
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
今回は『岡山への旅-その3』です。
前回、主に岡山城の話をしました。今回はその城主、宇喜多秀家(うきたひでいえ)についてご紹介したいと思います。
宇喜多秀家はあまり名が知られていない武将です。広島の毛利元就(もうりもとなり)と比べると、10分の1も知られていない、そういっても過言ではないでしょう。
宇喜多家は秀家の父が大きくしました。それを継いで秀家は五大老の一人に選ばれています。現代でいうと巨大企業の若社長といったところでしょうか。誰もがうらやむ存在です。しかし人生何があるか分かりません。秀家にも大きな転機が訪れます。
宇喜多秀家は、秀吉の猶子(ゆうし:相続権のない養子)でした。そのため関ヶ原の戦いでは迷わず西軍に加担します。しかしながら結果は敗戦。秀家は八丈島(現在東京都)に流されます。35歳のときでした。
“関ヶ原の戦い”はおそらく日本で一番有名な戦いです。では、その戦いで一番活躍したのはどこの隊かというと、それを知っている人はほとんどいません(これは幕府が噂を広めなかったからでしょう)。
実は、東西あわせて一番力を発揮したのが、岡山の宇喜多秀家隊だったのです。このあたり、「岡山県民はもっとアピールしても良いのに!」と思いますが、そうしないところが岡山人の美点でもあります。
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秀家が流された八丈島ですが、この島に関してはもう一つご紹介しておきたい話があります。福島正則(ふくしままさのり)にまつわる話です。正則は秀吉子飼いの武将でした。そのため豊臣家の繁栄を願う気持ちは人一倍。にもかかわらず、家康側にそそのかされ、東軍に味方します。結果、激突したのがさきほどの宇喜多隊でした。
関ヶ原を終えて、江戸にも居を構えていた正則。西国(地元)から正則に酒が運ばれます。あるときその舟が荒波で八丈島に漂着しました。樽から漂う酒の香り。嗅ぎつけた島民の一人が分けてくれと頼みます。それが宇喜多秀家でした。
正則の家来は秀家に酒樽を献上します。その報告を江戸で聞いた正則。家来にこう述べたといわれています。「よくぞ秀家殿に献上してくれた」「これからは江戸に向かう際、必ず島に寄って一樽差し上げるように」。人情味あふれる話です。しかし、そこには懺悔の気持ちもあったでしょう。なぜなら本当に豊臣の繁栄を願っていたのは、西軍の方(宇喜多秀家側)だったからです。
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私はふたりの人生に思いを馳せます。秀家は30代で殿様の地位から転落。80代で天寿をまっとうするまで八丈島で暮らしました。一方、正則は、関が原で勝利はしたものの、戦う相手を間違えました。家康側に加担したことで、自分が守りたかった豊臣家の滅亡に手を貸してしまったのです。
二人とも大きなものを失ったという点では共通しています。悲嘆に暮れたに違いありません。では、もしこの二人が現代にいて、あなたのところに相談にやってきたとしたら・・・。
私は正則の方が重症だと思います。それは罪悪感に苦しめられそうだからです。
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さて、こういうことを考えているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。家事も仕事もはかどりません。このへんで止めておきましょう。
次回も岡山について書きます。引き続きご愛読いただければ幸いです。
令和6年1月31日
院長 松本康宏