2024/11/01
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京都物語ーその2
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
今回も京都に関する話です。
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京都の目印(ランドマーク)といえば、何でしょう。やはり、東寺の五重塔ではないでしょうか。
東寺は名前から察するとおり、ある地点からみて東側にありました。その地点とは都の正門、羅城門(らじょうもん)です。平安京ができた際、羅城門を挟んで、東寺と西寺が作られました。羅城門から内裏までは朱雀大路(すざくおおじ)が貫きます。横幅84m。想像しただけで、平安京の大きさが分かります。
都ができて以降、京都は東側に発展していきました。平安京の西側は湿地帯が多かったからです。羅城門より東側にあった東寺が、京都駅より西側に位置していることからも京都の街が東側に発展してきたことが分かります。
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かつて『羅生門(らしょうもん)』という映画がありました。勿論、これは羅城門を意味しています。監督が黒澤明、製作が大映です。この作品は、1951年、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得します。これをきっかけに、日本映画は世界で認められるようになりました。
当時、日本には5つの大きな映画会社がありました。大映はその一つです(残りは東宝、東映、松竹、日活)。祖母が「戦中、上海で『風と共に去りぬ』を観た」と話していました。「カラーの映画で驚いた」と。祖母は、兄について、上海に行ったのだと思います。祖母の兄は、京都で映画館(大映系)の支配人をしていました。
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東寺に話を戻します。
東寺といえば五重の塔です。しかし、五重塔は東寺に限ったものではありません。他の場所にも存在します。最も古い塔が法隆寺なら、最も高い塔が東寺です。
東寺といえば、もう一つ思い浮かぶのが弘法大使、空海です。空海は日本史上最も頭が良かった人物かもしれません。中国(唐)に渡り、数か月で密教をマスターしました。
唐で密教の第八祖となった空海は、2年の留学を経て帰国します。その後、嵯峨天皇(桓武の次の次の天皇)から東寺を授けられました。
空海の功績は、密教を広めただけではありません。ため池をはじめ、様々な土木建築にも携わっています。また、どこまで本当か分かりませんが、「お茶」「うどん」「せんべい」、「小倉あん」といった食べ物も空海が日本に広めたとされています。
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以前、私はこんな疑問を抱いていました。「いかに空海が天才とはいえ、言葉も通じない国に行って、すぐに学問(密教)を修得できるのだろうか?」と。ただ、前回のブログでご紹介したように、当時の日本には外国人(渡来人)がたくさん来ていました。空海はそういった人たちから外国語を学び、完璧にマスターしていたのでしょう。
ライバルの最澄が都の近くに延暦寺を創設したのに対し、空海は京から離れた高野山に金剛峰寺を建てます。その間、直線距離にして100㎞。でも空海は遠くて不便な場所とは考えていなかったはずです。
密教を学ぼうと唐へ向かった空海。船が流され、福州に到着します。そこから長安(唐の都)までは2400㎞ありました。その際は、遅刻を避けようと旅路を急ぎ、50日で長安にたどり着いています。
こういった話を聞くと、平安時代の方が、今よりグローバルだったのかもしれません。また、人々の生き方や考え方も、ある意味、自由だったような気がします(続く)。
令和6年11月1日
院長 松本康宏