2024/11/08
人と地域を
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京都物語ーその4
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
前回、関所の話をしました。今回もその話から始めます。
<これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関> 百人一首、蝉丸(せみまる)の歌です。
信長が台頭するまで日本にはありとあらゆるところに関所がありました。さきほどの「逢坂の関(おうさかのせき)」もその一つです。
高速道路で京都から滋賀に向かうと、県境でトンネルをくぐります。かつて「逢坂の関」があった場所です。トンネルの名前は『蝉丸トンネル』。誰が名付けたかは知りません。しかし、極めてうまいネーミングです。
以前どこかで内館牧子さんがこんなことを言っていました。秋田新幹線の名称を“こまち号”ではなく、“なまはげ号”にすべきだと。同感です。その代わり、秋田空港を「秋田こまち空港」にすれば良いのではないでしょうか。
話が脱線しました。元に戻します。室町時代、日野富子が関所で関銭を取って以来、地元の有力者があちこちに関所を作るようになりました。信長はそれを改めようとします。関所をやめて、自由に行き来できた方が便利だし、物価も下がって経済が活発化するからです。しかし、それが “あだ”となりました。関所があれば、「本能寺の変」を防げたかもしれないからです。家康はそこから学びます。京都に来た際の安眠場所。それが二条城です。
二条城は、大政奉還が行われた場所としても有名です。徳川幕府が政治に行き詰まり、権限を朝廷に返上したのです。15代将軍、徳川慶喜のときでした。諸説ありますが、大政奉還は勝海舟のアイデアとされています。その実現に向けて、尽力したのが坂本龍馬です。
ここで少しだけ京都と龍馬の話をしておきます。
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幕末、京都で3つの大きな事件が起こりました。池田屋事件・寺田屋事件・近江屋事件です。
このなかで龍馬と関係しているのが寺田屋と近江屋です。ちなみに池田屋事件とは、新選組が長州の志士たちを襲った事件です。「沖田総司が喀血するシーン」。そういった方が思い出しやすいかもしれません。
他方、寺田屋は京都の伏見(京都市南部)にあり、龍馬の定宿(じょうやど)でした。そこを幕府の役人が襲撃します。その脱出劇は、よくドラマにもなります。
龍馬には当時、妻がいました。名をお龍(おりょう)といいます。お龍は寺田屋で働いていました。夜遅く、風呂に入っていたお龍。なにやら、外から物音がします。覗けば、何者かが宿を取り囲んでいるではありませんか。「龍馬が危ない!」。お龍は裸で階段を駆け上がり、龍馬に危機を知らせます。
寺田屋では命を取り留めた龍馬ですが、その10か月後、再び襲撃を受けます。中岡慎太郎と近江屋に滞在していた際のことです。そこで龍馬は落命しました。近江屋の跡地は、四条河原町にあり、今は事件を解説した看板と石碑だけが残っています。
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京都の話をすると、どうしても時代があちこちに飛んでしまいます。蝉丸が和歌を詠んだのが1000年前なら、龍馬が活躍したのが150年前です。
京都はやはり、「古くて新しい街」なのでしょう。
令和6年11月8日
院長 松本康宏