2024/11/13
人と地域を
もっと健康に
京都物語ーその5
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
『京都物語』は今回が最終回です。
*****
奈良時代に建てられた東大寺の大仏。世界的に見てもかなり大きな建物です。それが平安時代になると、大きな建造物が作られなくなりました。それはどうしてでしょう。それは荘園制度という脱税システムが広まって、朝廷が貧乏になったからだと思われます。
脱税によって作られた宇治の平等院鳳凰堂。建立したのは、藤原頼通(ふじわらのよりみち)です。豪勢といえば豪勢ですが、奈良の大仏と比べるとスケールに欠けます。
よく、江戸時代は長く続いたといわれます。期間にして260年。では、平安時代はというと、なんと400年も続きました。長く続いた理由は複数あります。でも一番大きな理由は、さきほどと同じく、荘園制度が拡充したからではないでしょうか。もし、朝廷にお金があれば、短期間のうちに、遷都が行われていた可能性が高いと思われます。
*****
京都から阪神地方に向かうには、2つのルートがあります。淀川の西側を通る道と東側を通る道です。かつては、西側が西国街道、東側が京街道と呼ばれました。
では西国街道と京街道、どちらを通る人が多かったのか?
私の推測は京街道です。そう考える理由は二つあります。大都市大阪に行こうとした場合、京街道の方が便利なこと(西国街道を進むと、最終的に大阪の近くで淀川を渡らなければなりません)。もう一つは、西国に行く道と言っても、備前の国(岡山)以西は、ほとんど船を利用したと思われるからです。
「京都に巨大な建造物がないのはなぜ」「平安時代が長く続いた理由」「西国街道と京街道、どちらが賑わっていたか」。若い頃から、よくそんなことを考えてきました。今だとネットに答えが載っているように思います。でも、答えをすぐ知りたいとは思いません。なぜなら、こういったことは、想像している方が楽しいからです。
*****
京都と大阪の間に「山崎」という地があります。秀吉と光秀が戦った場所としても有名です。ちなみにここは、国産モルトウィスキー発祥の地でもあります。歴史好きの人であれば、山崎と聞いて、司馬遼太郎の『国盗り物語』を思い浮かべるかもしれません。
平安時代、3つの大きな道がありました。瀬戸内海と琵琶湖と淀川です。山崎は平安時代、淀川の津(港)として栄えました。室町時代は山崎八幡宮が荏胡麻油(えごまあぶら)の専売権を握り、大いに栄えます。これが小説『国盗り物語』のネタでもありました。
このように、山崎は歴史色の濃い場所です。そのため、私もこの地を訪ね、ウロウロしていたことがあります。それによって、何か得られたかというと何もありません。しかし、思い出にはなりました。
*****
データを羅列するだけでは、京都のよさは分かりません。やはり、京都の魅力(よさ)を知るには、その舞台で生きてきた人々の「物語」を知ることが大事です。
渡来人、京都府立植物園、東寺、五重塔、空海、祭り、義経、関所、二条城、龍馬、平等院鳳凰堂、西国街道、京街道、山崎・・・、実際、そこには物語がありました。
ただ、実をいうと、一番面白い物語とは、自分が主人公の物語(思い出)です。一人で歩いた哲学の道、恋人とでかけた祇園祭り、家族と泊まった嵐山、そういった個々人の思い出が、物語として一番輝きます。
みなさんも京都にでかけて、自分だけの物語(思い出)を作ってみませんか(終)。
令和6年11月13日
院長 松本康宏