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2025/03/28

新しい歴史

 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

 先日、広島県の福山市に行ってきました。夜に着いて、翌朝6時40分のバスに乗り、「鞆の浦(とものうら)」へ。そこで数時間過ごし、すぐさま帰路に着きました。まさに弾丸旅行でした。どうして福山の「鞆の浦」を訪ねたかというと、かつてそこに足利義昭が住んでいたからです。義昭は、15代続いた足利幕府の最後の将軍。以下、彼の生涯について触れます。

 

 義昭は次男として生まれたため、幼い頃より仏門に入り、僧侶として暮らしていました。その彼に転機が訪れます。29歳の時でした。将軍をしていた兄(義輝)が殺害されたのです。「ならば、自分が立つしかない」。そう考えた義昭は幕府の再興を試みて寺を出ます。とはいえ、家来はほとんどいません。一方で自分の命を狙っている者がたくさんいます。そこで越前(福井県)の朝倉氏を頼ることとしました。朝倉氏の力を借りて京に上ろうとしたのです。しかし、朝倉氏はいつまでたっても動いてくれません。そのため次に頼ったのが信長でした。信長はすぐに動きます。あっというまに反義昭派を一掃し、義昭を京に迎えました。

 

 最初は信長に感謝していた義昭ですが、次第に信長の真意に気付き始めます。信長の本当の意図は、天下を取るために自分(将軍の権威)を利用することにありました。対立関係となった二人。義昭はあちこちの大名に手紙を送り、将軍の命で打倒信長を呼びかけます。その結果、信長包囲網が敷かれることとなりました。

 

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 信長のライバルといえば、多くの人が信玄や本願寺の顕如を思い浮かべます。しかし、私は義昭こそ最大のライバルだと思います。義昭のせいで信長は何度も危機にさらされました。それくらい重要な人物なのになぜかあまり知られていません。

 

 義昭はしつこくて図太く、そして努力を厭わない人物です。信長打倒を掲げ、信長が死ぬまで策を練り続けました。家康は「関ヶ原」の前、味方を作ろうとひと月の間に160通ほど手紙を書いたとされています。しかし、義昭があちこちの武将に送りつけた手紙の数は、その比ではないでしょう。でなければ、あの時代に信長包囲網を敷くことなんてできません。

 

 また、「本能寺の変に黒幕はいない」という説が有力ですが、義昭のことですから、ダメ元で光秀にも手紙を送っていたと思います。人間は得てして、思い切った行動をする前に、他人の言葉を思い浮かべます。「義昭様も信長を倒せ!といっていたではないか」。光秀は「本能寺」の前、義昭からきた手紙を思い出していたことでしょう。

 

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 最終的に信長包囲網は崩壊し、義昭は近畿を追い出されます。教科書ではその年を室町幕府が終焉した年としています(1573年)。しかし、足利家の将軍が有力な大名から京都を追い出されるのは義昭が初めてではありません。これまで何度もあったことです。そのため義昭が京を追放された年を幕府が終焉した年と捉えるのは無理があります。

 

 義昭は京都を追放された後、先ほど述べた「鞆の浦」に居を構えました。勿論、そこでも幕府の再興を夢見ていたことでしょう。しかし、夢かなわず、秀吉の圧力で1588年将軍職を返上します。こういった経緯を踏まえると、室町幕府が終焉した年は1588年と考える方が妥当ではないでしょうか。

 

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 子どもの頃、<イイクニ作ろう!鎌倉幕府(1192年)>と覚えました。それが、今はイイハコ(1185年)に変更されています。そういう話を聞くと、近いうちに室町幕府が終焉した年も変わるような気がします。

 

 古い話なのに新しくなっていく。そういった点も歴史の面白いところです。

 

令和7年3月28日

院長 松本康宏

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